戊辰戦争の際、上野の山が戦場になったのは皆さんご存知ですよね。上野の子供たちは、特に上野の山の戦いを「彰義隊の戦い」とか「上野の山の戦争」とか言っていました。
当時の子供達(小学校の2,3年かなぁ)にとって、その「歴史的意味」とか「背景」はまったく関係ありませんでした。当時のガキが「彰義隊の戦い」の話題をするときは
「よし、彰義隊の戦いの時の鉄砲の弾探しにいこう!」でした。
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そして、その場所は、なんと今は国指定の重要文化財の寛永寺旧本坊表門でした。本当にボロッチかったし、当時は重要文化財に指定されていませんでしたから(多分)、自由に門によじ登り門に残る弾痕を探していました。
でも、専門家でもないので、どれが弾痕でどれが虫食いや、木の剥がれかなんて解っていなかったとおもいます。とにかく、チョッと傷があるとみんな「彰義隊の弾の跡」ってことにしてその数を自慢していました。
今思うと、後に国の重要文化財になった門で遊んでいたのですからひどいことしていましたね。深く反省しております。
歴史愛好家の方は、やはり凄いですね。上野戦争「輪王殿の門(旧本坊表門黒門)に残る新政府軍の弾痕」 というサイトをおつくりになっています。
元・悪ガキのジモジー(地元のオヤジ)なんかより、よっぽどよく研究なさっています。是非、ご覧下さい。私もとっても勉強になりました。

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